No.15

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回想コーナー
この後は社会人生活に入ります



これからは先は           
永遠の恋人として
永遠に年賀状を送り続ける事にしました
「トヨタ車木版画年賀状50年の歩み」発刊につながりました


心機一転、仕事に打ち込み人生を楽しむ行動に徹しました
結果として翌年10月に高校同級生と結婚しました


一宮市新柳通り3−15はこのあたりだったかな?

下は「東瓦町67−1」の現在の状況です。
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57年前の想い出の日記です
画像にタッチすると活字になります

恥を忍んで青春のありのままを曝します。
青春時代の思い出としてレリーフ彫刻をプレゼントしました。
そのあと婚約の速達があり、翌日プレゼントを持ってきてくれました。
その時の思いが短文拙文ですが率直に綴られています。


日記の活字版を記載します

4月24日(土)

今日は集中講義、4時半まで、腰が疲れた。
のち自販実習生との交歓会。ビールで内藤君らと乾杯。
第三豊和寮まで行くときパブリカがドロドロに埋まってしまう。
自販の人らに押して貰ってやっと上がる。
内藤君らと9時まで雑談。
家に帰ったら深谷さんから速達が来ていた。
彼女、5月2日に婚約するそうだ。
突然僕の頭の中ではカラッ風が吹いた。
僕は自分の欲望を押さえきってしまった。
しかし、これでいいのだ。
お互いに、それぞれの道で幸せをつかもう。
夜12時半頃まで回想などの返事を書いた。
この2年間のことが眼前に表われた。


4月25日(日)

10時起床。昨日の手紙、ちょっと神経質になりすぎて
きにくわなかったので、あっさり何も書かず一枚にする。
投函。
きのう手紙を読んだ瞬間、心の中に、
やれやれという安堵が流れた。
しかし今はまた悔いに満ちている。
人間こんなものか?
思っている事と本当の心とは別らしい。
パブリカのミッションのワッシャーを 交換する。
洗車。午後気持ちの整理のため一切をしまう。
今後、本当の心の友達としてつきあっていこう。
心の友達。姿なき友達。
市長選挙。
4時半深谷さんから電話。
僕の家のすぐそばみつる屋からだ。
さっそく部屋に上がってもらう。悲しそうだった。
今までの事がマイナスにならないよう互いに話し合う。
パーカー45 EXTRA FINE をプレゼントにもらう。
栄町まで送っていったが彼女は泣いていた。僕も悲しい。

4月26日(月)

6時起床。元町社員クラブで説明後、職場へ案内される。
下塗り工場だった。僕は床塗りらしい。
給食を食べ家に帰り、7時まで寝る。
夕食を食べて8時半出発。
今日の僕の心は非常に沈んでいる。
泰子さんの涙顔を思い出すたびに僕も彼女が好きだ。
好きでたまらない二人なのになぜ結婚できぬのか?
環境のためか。
これを思うと僕も心の奥底で泣けてしょうがない。
僕には家を飛び出す勇気?行動力を持たない。
彼女も諦めている。
それ故、昨日の別れが悲しかったのだ。
僕は昨日できるだけ暗い顔をしないようにした。
彼女が自分で選んだ道に迷いを感じさせてはいけないと思ったからだ。
でも僕の心は泣いた。
奥底ではあなたが好きだ、好きで好きでたまらないと泣いて訴えていた。
人生こんな矛盾おおきものか。

4月27日(火)

仕事は水研。単調な仕事なので余計、頭の中は悲しさでいっぱい。
こんな調子で朝になった。
僕の心の精算には夜勤が一番よいのか?
7時終了。9:30〜4:30明るいうちぐっすり眠る。
風呂に入ってから内藤君の寮に出かけたが留守。
坪井さんのところに行く。また10時から勤務。
僕の心の中は割に安定してきた。
結論としては各々が打ち明ける事なく、互いに愛し合っていた。
もし環境の不運がなければ、とっくに言い表していたんだが。
そしてお互いに自分の道を悟らなければならなかった。
それでお互いに現実から逃避し合った。
彼女は他の人と婚約という形をとった。
僕は忘れるために他の女の子と付き合う事に専念した。
しかしこうして日曜に逢ってみると、いかにそういう事が
悲しい事かがあらためて 我々を襲ってきたのだ。


4月28日(水)

今日は2時間残業。6時間、ぶっ続けのライン作業はえらい。
9:30〜6:00、熟睡。10時よりまた作業だ。
水研3日目、指が痛い。小雨降る深夜1時、
ぞろぞろ食事をしにやってくる人々そして僕。
つくづく人生のはかなさを感じる。
水研をしていると「人生即別離」と落書きした車がやってきた。
めぐり逢いそして分かれる。これが人生というものなのだ。
このめぐり逢いのうち、ごく僅かが実る。これが人生か!
泰子さんとも、ごくフラットな気持ちで付き合ってきた。
しかしお互いに愛情が芽生えてきた。
しかし二人とも障害が多すぎる事は百も承知だった。
そして別離の運命。これも承知していた筈だ。
しかしもう逢えないと思うだけで計り知れない悲しみがあふれてきたのだ。


4月29日(木)

残業1時間で帰宅。8時5分に着く。
トースト6枚、鯨テキ2枚たいらげ寝る。
5時起床。風呂に入ってから鳥モモを食べてラジオを聞き8時出発。
水研4日目、僕の心の中に悟りが開いたのか気分も比較的晴ればれとしてきた。
そのせいか食欲も旺盛になった。
単調な仕事のうちにも頭の中で考えていることは明るい夢となってきた。
6時半に終わるまでそれほどの深刻さはなかった。
いさぎよく次のレースのスタートラインにつこう。


4月30日(金)

8時帰宅。今日から3日間連休だ。夕べの疲れをとるために眠る。
後、パブリカの小整備。カブの清掃。ガソリンを入れる。7626km。
失恋、これは失恋だろうか?降られたわけではないが、
やはり恋を失った事は失恋だろう。
僕の人生の重要な体験だろう
瞳の奥底に何か新しいものが光り出した様な気がする。
これでいいのだ。このような悲しい事はまだまだ起こるだろう。



レリーフ イメージ
画面にタッチして真相をご覧下さい 



手紙には残せませんが小生の胸の内を以下告白します。
このファイルは時間限定で掲載しその後は消去します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1965年4月27日を最後にお会いしていませんが、小生はその後ずっと
貴女の事を心に秘めて生涯の友として生きていました。
20歳になったばかりからの2年間は未熟であった小生の精神構造を育む
ためにはかけ甲斐のない2年間でした。
中学、高校と女友達には縁のない環境で育ち、大学に入ってからの2年
間は自動車部、自動車部、自動車部の生活でした。
そんな小生に転機が訪れたのは母にねだって買ってもらったパブリカの
中古を入手してからでした。
父が昭和20年1月14日台湾嘉儀飛行場で戦死し旧民法下で家督一括相続
を受けた小生は2歳半で祖母、母、妹の女3代の家の戸主になりました。
終戦後、母は父が務めていた市役所に入り家計を支えてくれました。
小生を育ててくれたのは明治13年生まれの祖母でした。
尾張藩士の娘として育った昔人間でした。
そんな育ちですので小生も世間の狭い真面目、律儀な、頑固な昔人間と
して成長してきました。
名古屋市地下鉄工事が当時の我が家とわずかばかりの貸家が立退対象に
なりました。
それまでは戦前からの店子から家賃を貰っていましたが微々たるもので
した。
母は自分の勤める市役所の共済組合から借金をし瓦町の換地 2筆 に住ま
い家と貸事務所を建てました。
これにより苦しかった生活に余裕が出始めた頃でした。
母は小さく育ちつつある小生を女手一つでなんとか大きく育てようと思
ったのです。
いままでもらったことのない額のお小遣いをくれ大きくなることを望ま
れました。
そんな中で小生も図に乗り車が欲しいと言い始めたのです。
3年生になったばかりの4月末に中古のパブリカがやって来ました。
そんなルンルンの時の5月2日に貴女の県立女子大自動車部ご一行様が
名大自動車部を訪問されたのです。
それまでは女性友達を意識したことなかった超純真ウブが一瞬にして
貴女に一目惚れしてしまったのです。
かつて経験のない異性の友達に付き合ってみたい衝動に駆られました。
内藤君、西根君も後押ししてくれました。
プラトニックラブを目指して行動開始でした。
性的要求を超える純粋な愛情をのみを求めて決意したのです。
到底結婚する意識はまだありませんでしたので小生の理解の中では当然
の事と思ったのです。
それからはパブリカを活用しての猛アタックでした。
なんとしても彼女と友達になりたい一心でした。
そして8月20日、一宮に出向き貴女を誘い出しドライブができました。
日本ラインへ行き河原での会話のひと時はうっとりして最高でした。
初々しい貴女の写真を見る度その後ますます思いを募らせました。
1ヶ月後には貴女が我が家を訪問してくれました。
狭っ苦しい小生の部屋で写真を見たりレコードを聴いたり楽しいひと時
でした。
異性の友人との付き合いは何て素敵なんかと実感しました。
その後は急速に貴女への思いが深まっていきました。
そして忘れもしないのは12月22日の名大自動車部主催のクリスマス
ダンスパーティーでした。
満員の鶴舞公会堂で接待活動の合間に貴女と踊れただジルバです。
ダークレッドのベルベットドレスの貴女は素敵でした。
手を取り背を支えた瞬間に頭の中が真っ白になりました。
あの感動は生涯忘れられません。
好きな人とダンスが踊れた夢心地でした。

貴女から最後に頂いた手紙には胸を打たれました。
結婚するまではプラトニックラブに徹する決意で臨み、かつ相手を
不幸に引き込むような言動は慎むことに徹してお付き合いをした
つもりです。
1年が経ったころから貴女からお見合いの話が出るようになりました。
自分が戦没者遺児であり女3代を抱える旧民法で家督一括相続した
戸主としての立場は重いものでした。
その頃は恋心が高まり貴女に対する思いはひとしおでしたがとても
プロポーズできるような立場ではありませんでした。
でもそれに反して日々思いは増すばかりの葛藤でした。
そんな中で内藤君を誘っての伊勢神宮・京都へのドライブは大変楽しく
思い出深いものとなりました。
写真も残っているので今でも懐かしく感じています。
しかし京都ドライブに出かける時に家の前で見送られていたご両親の
表情には今思うと不安であられたように感じました。

その後に二人で出かけた定光寺ドライブではデジタル時代でもないのに
写真を沢山写し、デート気分を味わったような気がします。
しかし多分、貴女はお見合いの件で悩まれていたかもしれませんが・・・・。
小生は楽天的に無視っていたのかもしれません。
貴女の悩みを受け止めれなかった感の悪さを後悔しています。
その頃、母親は事の成り行きを心配し勝手に興信所に調査依頼をして
いたようで貴女が養女であり「向こうのご両親の気持ちを考えて行動
しなさい。」と窘められました。
母から言われるまでもなく小生もご両親から貴女を奪い取るなんてことは
とても出来ませんでした。
その後の貴女との電話等でのやり取りは期せずして遠ざかる方向一筋
でした。
母親からの忠告は貴女には知らせた記憶はありませんが、貴女が小生
から遠ざかる決断と偶然にも完全一致してしまいました。
哀しいけど仕方ないと感じ、無心でレリーフの製作に取り掛かりました。
この2年間の総括のために。
完成し2年間のお礼とお詫びのつもりで一宮に届けに行きました。
数日後、貴女から手紙が届き5月2日の婚約を知りました。
いずれ来ると恐れていた事実でした。
その後、貴女が初めての給料で買ってくれたパーカー45万年筆のプレ
ゼントのために我が家に別れを告げに来てくれました。
(今でも使える状態で大切に保管しています。)
哀しくて悲しくて貴女を抱きしめたいとの思いが込み上げてきました。
しかしプラトニックラブに徹し自制しました。
本当は好きで好きでたまらないと言いたかったのですがごめんなさい。
冒頭に書きました「お互いにそれぞれの道を歩みいい人生にしよう!」
と誓い別れたことが走馬灯のように映ります。

小生はそのあと縁あって高校時代の同級生と付き合い始めました。
彼女は祖母・母との女3代同居のハンディーキャップ条件を受け入れ
てくれましたので1966年10月16日に結婚しました。
長女・長男・次男の3人の子供ができ祖母が亡くなるまでの10年間を
瓦町の家で同居生活をしました。
祖母が亡くなったのを機に母が趣味の人形造りに専念したいと言うので
豊田市古瀬間町に戸建を買い平日は豊田で暮らし土日は名古屋でという
二重生活を始めました。
1995年には母が脳梗塞で倒れ一人暮らしができなくなり入院・施設・
自宅と看護・介護生活が始まり家内に負担をかけました。
母も2002年に亡くなり夫婦二人だけの生活が始まり、還暦を過ぎてから
ですが人生取り戻し作戦を展開し始めました。

今では孫が7人のお爺ちゃんになりました。
トヨタ車木版画年賀状もその後ずっと続け50回記念として画集を出版
しましたので送付しました。
そこにも書いてありますが小生のホームページに小生の挙動が掲載して
ありますので興味がありましたらご覧ください。

以上長々と書きましたが秘密の手紙ですのでご理解の程よろしくお願いします。
でも人生残り少なくなってきましたので別れた時の約束は果たしたい
と思い切って書きました。

なお本文は誰にも知られたくないので小生のホームページのマル秘枠に
収録しておきましたのでこのような形での配信にしました。
このファイルは近い内に消去しておきます。


     

青春の思い出として大切に保管しています

画面にタッチすると2年間の行動が出ます




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1964.10.30

鶴舞公園・定光寺デイト
これが最後のデイトになってしまいました
お見合い話などについて5時間も話し続けましたね
(12:30鶴舞図書館〜17:30金山橋駅)

最後の半年間の経過を掲載します
このデイトの後、ご両親を泣かせない行動をしよう決心しました


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1964.4.19

京都行きドライブ
体調が悪いのを連れ出しごめんなさい
でも楽しい1日になり今では想い出の日となりました
見送りの時のご両親の心配そうな姿が今でも目に浮かびます


このあとの半年間の経過を掲載します
この2ヶ月後にお見合いの話を聞き覚悟しました
お互い運命の定めと決心したものの苦悩の半年でした



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xxxxxx 2022.5.2 xxxxxx

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初めて逢ったのは1963年の今日5月2日
そして最後の日は2年後の5月2日でしたね

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見学旅行のあと九州一周遠征 4000km

阿蘇山で山焼きに遭遇し出口探しに苦労しました

18日間ずっと西根君と恋愛論を交わし続けました
長崎と宮崎から絵はがき貴女に送りました
日々 思いが深まっていった気がします

その後の経過を掲載します
遠征帰宅後は猛アタックでした


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1964.1.26
伊勢神宮初詣に行きました
どの写真もお互いの表情が合っていますね

その後の経過を掲載します
日記への「記載あり」が増えっぱなしです


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市公会堂会場超満員の盛り上がりでした
本番では1曲しか踊れませんでしたが感動の瞬間でした

エンジのベルベットドレスも素晴らしかったです


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初デイトの日本ラインです
雲にも上るようなルンルンの気分でした
後で写真を眺めるたびに思いが深まっていきました

この翌週、揖斐峡方面にドライブしました
翌月には、瓦町の家を訪問してくれました

日記を読み返し半年間の経過を掲載しました



xxxxxx 2022.3.21 xxxxxx

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「九州東京全日本学連ラリー」に参加しました

この地から貴女への初めての絵はがきを出しました
そして2週間後に層雲峡からの絵はがきを受け取りました

夕刻に鹿児島を出発しました
17時間ノンストップで走り福岡で交代しました





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中古のパブリカのオーナーになりました
翌日の5月2日に幸運にも貴女とめぐり逢いました

その1ヶ月後に名大ラリーに参加してくれました
アップ髪姿の貴女に一目惚れしてしまいました



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