手紙には残せませんが小生の胸の内を以下告白します。
このファイルは時間限定で掲載しその後は消去します。
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1965年4月27日を最後にお会いしていませんが、小生はその後ずっと
貴女の事を心に秘めて生涯の友として生きていました。
20歳になったばかりからの2年間は未熟であった小生の精神構造を育む
ためにはかけ甲斐のない2年間でした。
中学、高校と女友達には縁のない環境で育ち、大学に入ってからの2年
間は自動車部、自動車部、自動車部の生活でした。
そんな小生に転機が訪れたのは母にねだって買ってもらったパブリカの
中古を入手してからでした。
父が昭和20年1月14日台湾嘉儀飛行場で戦死し旧民法下で家督一括相続
を受けた小生は2歳半で祖母、母、妹の女3代の家の戸主になりました。
終戦後、母は父が務めていた市役所に入り家計を支えてくれました。
小生を育ててくれたのは明治13年生まれの祖母でした。
尾張藩士の娘として育った昔人間でした。
そんな育ちですので小生も世間の狭い真面目、律儀な、頑固な昔人間と
して成長してきました。
名古屋市地下鉄工事が当時の我が家とわずかばかりの貸家が立退対象に
なりました。
それまでは戦前からの店子から家賃を貰っていましたが微々たるもので
した。
母は自分の勤める市役所の共済組合から借金をし瓦町の換地 2筆 に住ま
い家と貸事務所を建てました。
これにより苦しかった生活に余裕が出始めた頃でした。
母は小さく育ちつつある小生を女手一つでなんとか大きく育てようと思
ったのです。
いままでもらったことのない額のお小遣いをくれ大きくなることを望ま
れました。
そんな中で小生も図に乗り車が欲しいと言い始めたのです。
3年生になったばかりの4月末に中古のパブリカがやって来ました。
そんなルンルンの時の5月2日に貴女の県立女子大自動車部ご一行様が
名大自動車部を訪問されたのです。
それまでは女性友達を意識したことなかった超純真ウブが一瞬にして
貴女に一目惚れしてしまったのです。
かつて経験のない異性の友達に付き合ってみたい衝動に駆られました。
内藤君、西根君も後押ししてくれました。
プラトニックラブを目指して行動開始でした。
性的要求を超える純粋な愛情をのみを求めて決意したのです。
到底結婚する意識はまだありませんでしたので小生の理解の中では当然
の事と思ったのです。
それからはパブリカを活用しての猛アタックでした。
なんとしても彼女と友達になりたい一心でした。
そして8月20日、一宮に出向き貴女を誘い出しドライブができました。
日本ラインへ行き河原での会話のひと時はうっとりして最高でした。
初々しい貴女の写真を見る度その後ますます思いを募らせました。
1ヶ月後には貴女が我が家を訪問してくれました。
狭っ苦しい小生の部屋で写真を見たりレコードを聴いたり楽しいひと時
でした。
異性の友人との付き合いは何て素敵なんかと実感しました。
その後は急速に貴女への思いが深まっていきました。
そして忘れもしないのは12月22日の名大自動車部主催のクリスマス
ダンスパーティーでした。
満員の鶴舞公会堂で接待活動の合間に貴女と踊れただジルバです。
ダークレッドのベルベットドレスの貴女は素敵でした。
手を取り背を支えた瞬間に頭の中が真っ白になりました。
あの感動は生涯忘れられません。
好きな人とダンスが踊れた夢心地でした。

貴女から最後に頂いた手紙には胸を打たれました。
結婚するまではプラトニックラブに徹する決意で臨み、かつ相手を
不幸に引き込むような言動は慎むことに徹してお付き合いをした
つもりです。
1年が経ったころから貴女からお見合いの話が出るようになりました。
自分が戦没者遺児であり女3代を抱える旧民法で家督一括相続した
戸主としての立場は重いものでした。
その頃は恋心が高まり貴女に対する思いはひとしおでしたがとても
プロポーズできるような立場ではありませんでした。
でもそれに反して日々思いは増すばかりの葛藤でした。
そんな中で内藤君を誘っての伊勢神宮・京都へのドライブは大変楽しく
思い出深いものとなりました。
写真も残っているので今でも懐かしく感じています。
しかし京都ドライブに出かける時に家の前で見送られていたご両親の
表情には今思うと不安であられたように感じました。

その後に二人で出かけた定光寺ドライブではデジタル時代でもないのに
写真を沢山写し、デート気分を味わったような気がします。
しかし多分、貴女はお見合いの件で悩まれていたかもしれませんが・・・・。
小生は楽天的に無視っていたのかもしれません。
貴女の悩みを受け止めれなかった感の悪さを後悔しています。
その頃、母親は事の成り行きを心配し勝手に興信所に調査依頼をして
いたようで貴女が養女であり「向こうのご両親の気持ちを考えて行動
しなさい。」と窘められました。
母から言われるまでもなく小生もご両親から貴女を奪い取るなんてことは
とても出来ませんでした。
その後の貴女との電話等でのやり取りは期せずして遠ざかる方向一筋
でした。
母親からの忠告は貴女には知らせた記憶はありませんが、貴女が小生
から遠ざかる決断と偶然にも完全一致してしまいました。
哀しいけど仕方ないと感じ、無心でレリーフの製作に取り掛かりました。
この2年間の総括のために。
完成し2年間のお礼とお詫びのつもりで一宮に届けに行きました。
数日後、貴女から手紙が届き5月2日の婚約を知りました。
いずれ来ると恐れていた事実でした。
その後、貴女が初めての給料で買ってくれたパーカー45万年筆のプレ
ゼントのために我が家に別れを告げに来てくれました。
(今でも使える状態で大切に保管しています。)
哀しくて悲しくて貴女を抱きしめたいとの思いが込み上げてきました。
しかしプラトニックラブに徹し自制しました。
本当は好きで好きでたまらないと言いたかったのですがごめんなさい。
冒頭に書きました「お互いにそれぞれの道を歩みいい人生にしよう!」
と誓い別れたことが走馬灯のように映ります。

小生はそのあと縁あって高校時代の同級生と付き合い始めました。
彼女は祖母・母との女3代同居のハンディーキャップ条件を受け入れ
てくれましたので1966年10月16日に結婚しました。
長女・長男・次男の3人の子供ができ祖母が亡くなるまでの10年間を
瓦町の家で同居生活をしました。
祖母が亡くなったのを機に母が趣味の人形造りに専念したいと言うので
豊田市古瀬間町に戸建を買い平日は豊田で暮らし土日は名古屋でという
二重生活を始めました。
1995年には母が脳梗塞で倒れ一人暮らしができなくなり入院・施設・
自宅と看護・介護生活が始まり家内に負担をかけました。
母も2002年に亡くなり夫婦二人だけの生活が始まり、還暦を過ぎてから
ですが人生取り戻し作戦を展開し始めました。

今では孫が7人のお爺ちゃんになりました。
トヨタ車木版画年賀状もその後ずっと続け50回記念として画集を出版
しましたので送付しました。
そこにも書いてありますが小生のホームページに小生の挙動が掲載して
ありますので興味がありましたらご覧ください。

以上長々と書きましたが秘密の手紙ですのでご理解の程よろしくお願いします。
でも人生残り少なくなってきましたので別れた時の約束は果たしたい
と思い切って書きました。

なお本文は誰にも知られたくないので小生のホームページのマル秘枠に
収録しておきましたのでこのような形での配信にしました。
このファイルは近い内に消去しておきます。


     



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